受けとめてもらうことと納得すること

f:id:poco_sa_poco:20170612032313j:plain

人によってはすでに内定を得ているであろうこの時期に、ちょっと立ちどまってしまった。

なぜ立ちどまってしまったのか、おそらく感じてはいた「なぜ」に自分で納得できないままふわっとここまで来てしまったからだと思う。

そもそも「なぜ就職するか」「なぜ就活するか」の段階から「なぜみな黒髪リクルートスーツなのか」、そして「なぜ新卒採用で正社員になる道しかないみたいな雰囲気なのか」「なぜ一つの会社に長く働くべきみたいな風潮なのか」などといろいろと思うことはあった。

ただ、別にこれらすべてにきちんとした解答を出されたいわけではない。出されても納得するしないは私の気分だし、私が納得しなければ意味がない。

 

納得する以前に、私が「なぜ」って思っていること自体を認めてほしかっただけだ。

 

「みんなやってるんだから」「そういうもんだよ」はもってのほかだし「そういうこと言ってる人を企業はとりたいと思わないよ」などと言われて単純に「そうか、じゃあとりあえず従ってやんなきゃな」と思える問題じゃない。そんな単純に納得するのであれば、そもそも疑問に思っていない。

 

求めていたのは私が「なぜ」って思うこと自体を「そうなんだね」「そういう考えもあるよね」と、言っても言わなくてもいいから聞いてくれることだった。

相談室のひとは、何も余計な返しをせずにただ聞いてくださった。その時「私はただそう思っていることを認めてほしいだけなのかもしれない」と、口にして気づいた。

 

そこから少しずつ(さすがに黒髪リクスーは早い段階で納得し従っていたけれども)、就活を進めていくことに納得できるようになっていった気がする。

変に持っていた、抵抗心が溶けていった感じ。

 

まず他者に受けとめてもらうことによって、自分の考えを認めたり他者の考えを受け入れたりが出来るようになることはあると思う。

はねつけられたらむしろこっちだってはねかえしたくなる。

 

解決策や個人的意見みたいな、客観的な正論を聞きたいわけじゃなくて、ただ聞いてほしいだけ。

ひとの話を聞くときとかも、まずは受けとめられる人になれたらなって思います。

 

自分を甘やかしていいラインがわからない話

f:id:poco_sa_poco:20170526134615j:plain

ふたつの海の顔:『海は燃えている イタリア最南端の小さな島』

f:id:poco_sa_poco:20170522021842j:plain

高校受験を控えた中三の頃、友達と一緒に、海辺にある大きな図書館に自習をしに出かけた。しかし大勢の人に囲まれて勉強するのは、あまり居心地のいいものではなかった。せっかく大勢の人の列に並んでまで自習しに来たにもかかわらず、私たちはすぐに飽きた。

何となく、海辺に行くことにした。

それまで公立の小学校、中学校と進んできた。高校受験が、初めて自分で行き先を選ぶ岐路だった。選ぶと言っても行きたい高校には行けるかわからない、そんな不安を抱えた日々だったからかもしれない。

海をずっと眺めていると、途方もなく怖くなった。特に荒れた様子はなくても、ただ目の前にあるだけで怖かった。海よりこちら側の陸で当たり前のように生きているけれど、ひとたび海に飲み込まれてしまえば人生は終わる。そんな死に続いているような、底知れない怖さを感じたのを覚えている。

 

 

 

『海は燃えている』で描かれる海には、二つの顔がある。

一つは、島の人々にとって身近な存在である海。

もう一つは、難民の人々が生死をかけて渡ってくる海だ。

 

この作品は、島に住む少年の日常を描くパートと、難民救出の様子を描くパートの二パートから構成されている。

 

少年の日常では、友達とパチンコで鳥を撃ち落とそうと遊んだり、家族で食卓を囲んだり、ボートで海に出たりと、穏やかな時が流れている。このパートから分かることは、島の男性はみな漁師になる人生を歩むということだ。

少年はまだ船に慣れておらず、船酔いで吐いてしまう。船の揺れに慣れる練習をしろと言われ、ひとり波止場の上で立つシーンがある。これからの長い人生、少年が海と付き合っていくための準備期間。

海が、島に住む人間にとっていかに身近で、重要な存在かが伺える。

 

そして海を渡って島に辿り着いてくる難民の存在。この映画を観るにあたって、一番気になっていたところである。ニュースで「難民」「難民」と言うけれど、日本に住む身では実感として「難民がどういう人たちなのか」を知る機会はほぼない。どのような人々の、どのような様子が映し出されるかに興味があった。

 

広大な海の中にぽつりと浮かぶボートの姿や、そこから届くSOSの音声など、生々しい現実は目から耳から飛び込んできた。「助けて」と訴えながらも、途中で途切れてしまう音声もあった。厳しい現実だが、その厳しさはなんとなく覚悟というか、想定していた。

 

それよりも印象的だったのは、救出された後の人々の表情や雰囲気だ。私は、救出されることは単純に喜ばしいことなのだろうと楽観的に捉えていた。しかし一艘のボートが辿り着いたとしても、長い航海の中で息絶えた人もいる。死にかけた状態の人もいる。そして彼らと一緒に、決死の覚悟で生き延びてここまで辿り着いてきた人々。みな安堵だけではない、複雑な思いを抱えているのだ。泣いている人も多く、全体的に重々しい雰囲気が広がっていた。特定の国について、怒りをあらわにしている人もいた。

テレビで、身元がばれるのを防ぐため顔出ししない難民の方を見たことがある。難民として命からがら他国に渡ることに成功しても、そこで終わりではなく、難民であることやその苦しみはこれから先もついてまわるのだろう。

 

難民に対して海は、唯一の希望であるが、とても厳しい顔を見せる。島の人々に対する海の顔とは対照的だ。海は、二つの顔を持ち合わせている。

作品の中で、少年の日常と難民の救出劇の二パートは接点を持たない。

だからこそ、海の二面性が際立つ。

 

改めて海は、凄く穏やかな中にも底知れぬ厳しさ、恐ろしさを秘めているようにみえた。

 

 

 

『生きる』

f:id:poco_sa_poco:20170518031200j:plain

 

今年一番最初に観た映画は、黒澤明監督の『生きる』。

志村喬の、ぎょろっとして黒く濡れた眼が印象的だった。

ゆめみる隙間

「自分があの会社で働いてるところ、想像できる?」と聞いたら

「できる、妄想レベルだけど」と言われた。

 

その会話をする少し前に、どういう話の流れだったか忘れたけれど「妄想する・しない」の話になった。私は、妄想をあまりしない方だ。

 

小学生のころは本や漫画を読み耽ることが楽しみで、授業中先生に「(意識が)オリオン座に行っとるぞ」と注意されてしまうような子だった。だからこそ今でも性格診断の選択肢で「空想しがち」の方を選びたいと意識的には思ってしまう。

 

でもやっぱり、今の私は妄想をあまりしない。

 

どちらかというと現実的なことをぐるぐるとキリなく考えすぎてしまう頭になった。実際のところ、いつも何を考えてるのと聞かれれば思い出せないけれど。

あれってああなんじゃない?こうなんじゃない?でもこうやって思われるかもしれなくない?私ってやっぱり怠惰な人間でしかなくない?みたいな。

 

一つのことを考えると、それに対して想定しうる反論まで湧いて出てくる。たいてい自分に対する否定みたいな言葉を先回りして想定する。

 

そうやってぐるぐると頭の中で色々なこと(ほとんど自分にまつわること)をとめどもなく考えているので、私の頭には妄想する隙間がないのだと思う。

 

それこそ二次創作とか、頭の中でキャラが動いて萌えたから描きましたみたいなの、すごいと思う。例えばこの人とこの人がこうなったら…これしたら…みたいに、自分で場をしつらえてそれぞれの言動を想像して、という発想がそもそも浮かんでこない。だからそういうことができる人は、少しと言わず羨ましい。自分で楽しさを増幅させることができるわけで。

 

でもこれからの人生を選んでいく岐路に立つ今だからこそ、理詰めで考えず、夢見る気持ちベースで考えていたい。結局「ああなりたい」「これがしたい」みたいな純粋な気持ちが一番原動力になるのだろうし、そういうのを原動力にしていきたいと思うから。

好きなことと人生

録画していた『セブンルール』を観た。25歳のトラベルフォトライターの方のお話。

カメラは日本での仕事の打ち合わせの様子、ニューヨークやナミビア砂漠での仕事の様子に密着していた。

 

私は、海外に行ったことがない。海外の建物や砂漠の映像などを見て「すごいなぁ」とは思うものの、それらが同じ地球上にあって自分の足で辿り着ける場所だという実感は正直ない。どちらかというと日本での仕事の様子に惹かれた。

 

「自分の足で複数の会社を駆け回って、一人でいくつも仕事を受け持っている感じ、カッコいいな」

 

現在、私はなんとかして組織の一員になり、安定した後ろ盾のある人生を得ようと四苦八苦している立場だ。そんな身からすると、一人で仕事をできるということはそれだけ社会から評価されていて、必要とされている人なのだろうと眩しく映った。

 

その上、旅行という好きなことを仕事にしている。どのような経緯でトラベルフォトライターとして活躍するに至ったのか、そこが知りたかったけれどあまり具体的に描かれなかったのが残念ではあった(番組サイトを見たら、インスタで写真が話題になって写真集を発行し、そこから今の職に至ったそう)。

 

彼女の仕事の様子を見ていて、好きなことを仕事にする上で大事なことは「だれか」視点を持つことなのではないかと感じた。旅先でカラフルな写真を撮るのに定評がある方のようだが、そのような写真を撮ることについて「自分の写真を見て、誰かが踏み出すきっかけになれば」と言っていた。

 

好きなことをただ自己満足で終わらせるのではなくて、誰かに伝えよう、届けようとする思いをもってやれる人が好きなことを仕事にできるのかもしれない。

もちろん「この風景ってかわいいかも」などと自分の感覚を大事にする部分はある。でも、それを見てくれる人や影響されるかもしれない人のことを考えず、ただ自分のやりたいようにやり「評価してください!!」と言ったところで、ただの独りよがりに終わってしまうのだろう。誰かに届けるとしたらどうやって届けたいかとかどう感じてもらいたいかとか、自分ひとりの世界だけではなく、他者も存在する世界まで視野を広げることって大事だなと思った。

 

このことは、もしかしたら就活でも言えるのかもしれない。そういえば今日買った『適社内定』という本にも「自分本位の就活ではなく、企業の視点に立った就活をしよう」というようなことが書いてあった。なおこの時期にこんな本を買っている時点で、色々とお察しください。

 

ちなみに彼女が旅をして写真を撮るようになったきっかけは、祖父から成人祝いとしてもらった20万円で行ったドイツ旅行だそう。

自分がもし20万円もらったら、たぶん好きなものを買うために使うと思う。まずはテレビ回りを新調する。BDレコーダーを買って、テレビの大画面でDVDを観れるようにする。アンテナつけてBSを観れるようにする。その他は、欲しいCDや行きたいライブが出てきたときのために貯金。

 

大金を手にしたら何をするか、で自分の好きなもの・関心のあるものってみえてくる気がする。私はテレビや映画をもっと快適に楽しみたい。でもやっぱり、その経験が転機になるかもしれないことを考えると、モノより経験を買ったほうが有意義なのかもしれないなとは思う。

 

まあそんな大金も、人生の転機もやすやすと手に入れられないけれど。

だから、さらっと「あなたの人生の転機は何ですか?」とか聞かれても困りますほんとに。こちとらたかだか20年ちょっとしか生きていないのに。