ふたつの海の顔:『海は燃えている イタリア最南端の小さな島』

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高校受験を控えた中三の頃、友達と一緒に、海辺にある大きな図書館に自習をしに出かけた。しかし大勢の人に囲まれて勉強するのは、あまり居心地のいいものではなかった。せっかく大勢の人の列に並んでまで自習しに来たにもかかわらず、私たちはすぐに飽きた。

何となく、海辺に行くことにした。

それまで公立の小学校、中学校と進んできた。高校受験が、初めて自分で行き先を選ぶ岐路だった。選ぶと言っても行きたい高校には行けるかわからない、そんな不安を抱えた日々だったからかもしれない。

海をずっと眺めていると、途方もなく怖くなった。特に荒れた様子はなくても、ただ目の前にあるだけで怖かった。海よりこちら側の陸で当たり前のように生きているけれど、ひとたび海に飲み込まれてしまえば人生は終わる。そんな死に続いているような、底知れない怖さを感じたのを覚えている。

 

 

 

『海は燃えている』で描かれる海には、二つの顔がある。

一つは、島の人々にとって身近な存在である海。

もう一つは、難民の人々が生死をかけて渡ってくる海だ。

 

この作品は、島に住む少年の日常を描くパートと、難民救出の様子を描くパートの二パートから構成されている。

 

少年の日常では、友達とパチンコで鳥を撃ち落とそうと遊んだり、家族で食卓を囲んだり、ボートで海に出たりと、穏やかな時が流れている。このパートから分かることは、島の男性はみな漁師になる人生を歩むということだ。

少年はまだ船に慣れておらず、船酔いで吐いてしまう。船の揺れに慣れる練習をしろと言われ、ひとり波止場の上で立つシーンがある。これからの長い人生、少年が海と付き合っていくための準備期間。

海が、島に住む人間にとっていかに身近で、重要な存在かが伺える。

 

そして海を渡って島に辿り着いてくる難民の存在。この映画を観るにあたって、一番気になっていたところである。ニュースで「難民」「難民」と言うけれど、日本に住む身では実感として「難民がどういう人たちなのか」を知る機会はほぼない。どのような人々の、どのような様子が映し出されるかに興味があった。

 

広大な海の中にぽつりと浮かぶボートの姿や、そこから届くSOSの音声など、生々しい現実は目から耳から飛び込んできた。「助けて」と訴えながらも、途中で途切れてしまう音声もあった。厳しい現実だが、その厳しさはなんとなく覚悟というか、想定していた。

 

それよりも印象的だったのは、救出された後の人々の表情や雰囲気だ。私は、救出されることは単純に喜ばしいことなのだろうと楽観的に捉えていた。しかし一艘のボートが辿り着いたとしても、長い航海の中で息絶えた人もいる。死にかけた状態の人もいる。そして彼らと一緒に、決死の覚悟で生き延びてここまで辿り着いてきた人々。みな安堵だけではない、複雑な思いを抱えているのだ。泣いている人も多く、全体的に重々しい雰囲気が広がっていた。特定の国について、怒りをあらわにしている人もいた。

テレビで、身元がばれるのを防ぐため顔出ししない難民の方を見たことがある。難民として命からがら他国に渡ることに成功しても、そこで終わりではなく、難民であることやその苦しみはこれから先もついてまわるのだろう。

 

難民に対して海は、唯一の希望であるが、とても厳しい顔を見せる。島の人々に対する海の顔とは対照的だ。海は、二つの顔を持ち合わせている。

作品の中で、少年の日常と難民の救出劇の二パートは接点を持たない。

だからこそ、海の二面性が際立つ。

 

改めて海は、凄く穏やかな中にも底知れぬ厳しさ、恐ろしさを秘めているようにみえた。